いろいろあって、1人で見てた。
確認してないし、取る気もないので、どことは言わないが、ホテルのバーで見てた。
最近、わりと独り言が多い。
何かをするのに、指差呼称みたいに、指さしながら、喋りながら自分自身で確認してする。
傍から見たら、病気のおっさんだろう。
間違いない。
結果から言えば、凱旋門賞は、クリスチャンデムーロのソットサスがピシャッと差した。
そっと差したのかもしれないが、ちゃんと差し切った。
おめでとう。
デムーロ家は、最近親父さんを亡くしたばかり、ゲルハルトベルガーのドイツグランプリを思い出した。
なにか特別な力が働いていたのかもしれない。
もちろん、それは勝ちに値するものを持った上での、紙一重のなにかだ。
けして、勝者を貶める意味ではない。
ディアドラもがんばったと思う。
少なくとも、今出せる力は、出し切ったのではないかな?
競走馬としてのピークは、残念ながら過ぎてしまったのかもしれないが、素晴らしい走りだったと思う。
去年からの彼女のチャレンジを見て、かばちがあるやつは競馬なんか見るのやめてしまえ…というレベル。
挑戦し続ける、戦い続ける…
それは、相手があってのことなのか?
どんな戦いであれ、まずは自分との勝負で、究極的にもそうなのかもしれない。
enable。
彼女が何と闘っていたのか?
非常に残念な結果に終わり、負けるにしても…という内容だったかもしれない。
彼女の歩いた道は、誰も歩いたことのない道だった。
彼女に対して、何か言えるとしたら、同じ道を歩んだものだけではないか?
機械ではなく、生物であるサラブレッド。
その能力を数値化しようとすると、非常に難しいことになる。
コースコンディションがイコールで、はじめてタイムという数字が物差しになる。
コースも芝という生き物だと考えれば、それをイコールコンディションに保つというのは、無理な話だろう。
サラブレッドに一番負荷がかかるのはレースだという。
調教では、レースほどの負荷はかからないという。
それならば、enableを感じたのは、鞍上のランフランコデットーリだけだろう。
昨年、完璧なレースをしたといって、2着に敗れ三連覇ならなかった時、デットーリほどの男をしても、涙が流れたという。
デットーリに関しては、ググったり、ウィキったりしてみて。
ゴスデン調教師、担当していたものでも、普段のenableしかわからない。
これから先、出てくるかもしれない、デットーリのコメントを待つしか、我々が彼女の本当の姿を知ることはないだろう。
物事には、あちらがあれば、こちらがある。
どちらかでは成り立たぬ、二面性があるだろう。
デットーリがどう表現、どう言葉に変え、それを我々がどう捉えるか?
やはり、彼にしかわからないのかもしれない。
なににせよ、彼女は、enableは、我々を見たことのない世界へ連れってくれたのだ。
私は彼女に感謝の気持ちしかない。
この後、デットーリには、去年が重くのしかかるかもしれない。
でもそれも、enableだからこそ経験できたもの。
そんな幸せな騎手はいないのだ。
「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」
彼女にとっても、今年のロンシャンの馬場は厳しかったのだろう。
去年ほどの力がなかったからか、去年より馬場コンディションが悪かったからかは、わからないが。
いつもは、こんなレースの後、G-ZEROのみんなで話し合うのだが、今回はそれを待たず、私の気持ちと見解だけで書いている。
間違った見方かもしれない。
それでも、感じたことを、ありのままに記してみたい。
これからも、enableのような馬が、そう易々と現れるわけはない。
だから、これから長い間考えて、どんどん思うことは変わっていくかもしれない。
だけれど、ただただ、その挑戦に、歩んだ道に拍手を送りたい。
そして、enableがいなくなって寂しいと思っていても、また誰か現れて、私たちの目を釘付けにするのだろう。
サラブレッドが、強く儚い理由かもしれない。
それでも、我々は数シーズン、enableを中心に回ったのだ。
その記憶は、そう簡単には書き換えられない気がする。
お疲れ様じゃないないな、素晴らしい走りをありがとう。
「enableだって無理だったんだ。そう簡単に凱旋門賞3連覇とかあってたまるか!」
おっさんたちは、言い続けるだろう。
サラブレッドは、なんと過酷なんだろうな。
美しさの代償なのかもしれないが…